最近は週1回座禅を行うようにしている。
トレーニングの周期を1週間で管理していて、今のところ水曜日。
福山みろくの里の所に「神勝寺」というお寺があり、そちらで。
朝6時から7時まで。薄暗いお寺の中でひたすら無心になる。
「座禅なんて気持ちの問題だろ」と思われるかもしれない。でも何かを突き詰めれば突き詰めるほどメンタルをどれだけコントロールできるか、また自分を見ることが出来るかが必要。
そこを軽視することは、まだその域に達していないか、相当な天才。
あくまで持論なので。あしからず。
メンタル=精神というと、どのようなイメージ?もしかしたら熱血な、自分を奮い立たせるようなもの?
もちろんそれは大切。
だけど他にも大切なのは「クリアリング」。これは「忘れる」という側面もあるだろうし「整理する」「シンプルにする」ということ。
「もっとあんなトレーニングができたのではないだろうか?」
「スタートで出遅れたらどうしよう」
「ゴーグルが外れないだろうか」
過去のことから、今のことまで様々な不安がよぎる。
まず、こうなるとまず上手くいかない。
「いや、でも途中で怪我もあったり、予定通り行かなかったけどこれはできたよね。できなかったことは、次に向けてやればいい」
「自分は後半強いから、少々遅れてもカバーできる」
「最悪、外れても泳げるやろ」
そう思えるかどうか。もしかしたらどんな事柄も常に先を見据えてリカバーできるかどうかが、メンタルを整えるのかもしれない。
座禅はその力を鍛えるのに非常に良いと感じる。世の中、雑多なことだらけ、あれもあるこれもある。どうしよう。怒られる。。。
でも一つ一つを整理したら、意外とこうすればいいよね。これは別にそんなに大したことではないよね。と、答えはシンプルだったりする。
座禅をしているといろんなことがクリアに出来て、本当に無心になる。
「よし。この1週間、しっかりと頑張ろう」
また、この坐禅は身体的にも良い効果が期待できる。背筋がまっすぐなっているか。呼吸が深くお腹からできていなければ、リラックスして無心になれない。
うまくいった時の自分を想像してみると、案外、シンプルなことを考えていることが多い。感謝。楽しみ。隣の選手は緊張してるな。勝てる。こいつがここにいるから、慌てなくても大丈夫。大腿四頭筋が疲れてきてるぞ。様子を見よう。ここが勝負どころだ。
そして、案外、闘志をむき出しにしている時の方がこけてる。闘志をむき出しにすることがいけないのではなくて、その副作用で余計なことまで頭によぎったり、あるいは必要な情報が入ってこなかったりする。いわゆるアガるというところ。
子どもの頃にグランドでサッカーやドッヂボールやゲームをしている時に、理由なんてなかった。あっという間に時間は過ぎていた。やっている最中に理由なんていらない。プールにいる時間、グランドを走る時間、ペダルを踏んでいる時間。あっという間に過ぎていく。
そんな自分をコントロールするために座禅は、良い一つの方法だと思う。時間がないときは簡易的に自分の家で行う。
ある意味、こちらのほうが本質をついているかもしれない。冷蔵庫の音、ご飯が炊ける音、電車が通過する音。雑音が多い中、いかにコントロールできるかは非常に大切な気がしている。そして案外無心になれるという事がわかった。(でも、まずはお寺でやってみてください)
しかし、ここまで書いてきたことで言えるのは、
「ベストを尽くしてきた」という前提のもとに成り立っているということ。
人間だもの。欲望に負けることもあるし、だらけることもある。「はい、だらけました。でもそれをリカバーするだけの努力を尽くしました」と自信を持って言えるかどうか。
明らかに「自分自身の許容範囲をこえるほどの過失やサボり」がある中では、いくら精神をコントロールしようともできない。だって「頑張った」という自分の水準を満たしていないんだから。本番だったら、そもそもその時点で勝負に負けている。準備の結果が勝負の結果というのはそういうことも含んでいる。
いくら座禅をしても、雑念を消せない。クリアリングできないときがある。
それは、単純に自分の頑張ったレベルをこえていない自分がそこに居ることを自分自身で認識しているから。
ただ、そんな無心になれなかった坐禅に費やした時間も無駄ではない。ダメな自分を改めようとそこからリカバーし始めるから。
何千年という長い時間、キリスト教であれ、仏教であれ、人は「祈る」ということを続けている。きっと何かそこには大切な事があるんだろう。
そして、おじいちゃんおばあちゃんはゲートボールを楽しんでいる。(最近はグランドゴルフも多いか?)ほんとうに楽しそうだ。きっと、楽しい世界があるに違いない。